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佐藤 進(さとう すすむ、1845年12月23日(弘化2年11月25日) - 1921年7月25日)は、幕末から明治にかけての医師、医学者、日本陸軍軍医、順天堂医院院長。最終階級は陸軍軍医総監(中将相当官)。男爵。医学博士。 == 経歴 == 常陸国太田内堀で醸造業高和清兵衛の長男として生まれる。佐倉順天堂に入り佐藤尚中の養嗣子となる。戊辰戦争では奥州に出張し白河、三春で新政府軍の病院頭取を務めた。 明治2年(1869年)、明治政府発行の海外渡航免状第1号を得てドイツに留学。ベルリン大学医学部で学び、1874年(明治7年)にアジア人として初の医学士の学位を取得し帰国。順天堂医院で医療と医学教育に従事した。 1877年(明治10年)、西南戦争が勃発すると陸軍軍医監に任じられ陸軍臨時病院長として大阪に出張した。1879年(明治12年)10月、陸軍本病院長に就任。1880年(明治13年)に陸軍を辞め順天堂の経営に専念した。 日清戦争が始まると再び軍医監に任じられ広島予備病院長に就任。1895年(明治28年)3月24日、講和交渉で来日していた李鴻章が下関で小山豊太郎に狙撃され負傷した際には、その治療に当った。日露戦争では三度、軍医監に任じられ、広島予備病院御用掛に就任し、休日返上でその職務を遂行した。1905年(明治38年)12月30日、後備役に編入〔『官報』第6917号、明治39年7月20日。〕。1910年(明治43年)4月1日に退役した〔『官報』第8035号、明治43年4月8日。〕。 1907年(明治40年)9月21日、日露戦争の功により男爵に叙爵し華族となる。1909年(明治42年)、順天堂医院院長の職に留まるが順天堂の運営を養子の佐藤達次郎に任せ、母の実家のある茨城県麻生町に移り余生を送った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐藤進 (軍医)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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